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最近のことと、心のゴミみたいな昔話と

日記 毒親 暮らし 日常

大好きな叔母や、お義母さんのような人間になりたかった。

※今回はクソみたいな愚痴垂れ流しです。

 いつもにも増してネガティブ

実際は、どうだろう。あれだけ嫌だった母に似てきてしまっている自分がいる気がしてならない。絶対に母のようにはならないと心に決めていたはずのに。母に似てしまう自分が嫌いだから、こどもに同じ思いをさせる前に消えてなくなりたいという思いも捨てられない。こどもにとって私は悪でしかないのではないかと、日々そんなことを思ってしまう。

話は変わるが、前回の記事↓

産まれてこなければよかった、という呪い。 - てけとうじんせい

これを勢いよく書いたはいいのだけど、離れている母に見られたらどうしよう、怒られるのではと、あれだけ書いておきながら今更びくびくしている。

またそれとは別のところで、母とはおそらく今険悪になっている。尿道結石の件があって、私はもう1人では実家に帰ってくるなと言われているのだが、家族を連れて帰るとも言い出せないほど、今険悪だと思う。実家があるところには当然私の友達がいて、私が大好きな叔母がいる。帰りたいなと思うこともある。でも1人では帰れない。帰りたいと思うときに帰れないのはなかなか辛い。そして実家に帰れないということは、大好きな叔母には会えなくなるにも等しい。私が謝れば解決する。しれっと今度帰っていい?って素知らぬふりで聞けばいいだけの話なのかもしれない、色々面倒くさい。

そんなことを色々と考えれば考えるほど苦しくなって、ついには眠れないほど胃が痛くなり、涙が勝手に溢れて止まらなくなってしまった、そんな夜があった。

家を離れて今現在の方がストレスがダイレクトに体調にあらわれるようになってしまった。これいかに。もちろん実家にいる時の方が断然ハイストレスなわけだが、その時は何も体調面にあらわれなかったのは、私がド健康だったからか、それとも今更になってツケがきているのか、それはわからない。

そんないつものようにメンがヘラっている私を夫は少しもまたか…って顔をせず、少し母のことは放っておこうと言ってくれた。「時間をあければ変わるかもしれないし、変わらなかったら、会いに行きたい人にだけ会いに行けばいい」それを聞いて、そっかと心が少し落ち着くも、それがもしバレて怒られたらと思うと怖くてできやしない。私は何より母から怒られることを恐れている。2時間以上離れた場所にいるのに、考えるだけで震えるほど怖い。

前の記事についても夫に聞いてみると「俺はむしろ見てほしいけどね」とはっきり言った。こいつなんて恐ろしいことを、と最初は思った。だって怒られるに決まってるし、さめざめと言い訳のような愚痴が飛んできたり、逆に育てにくい私が悪いのだと、もし言われるようなことになったら……それこそ胃に穴があいてしまうじゃないか。そう伝えると夫は「今、〇〇(私)が苦しんでるのは紛れもなくお母さんの所為だし、それを知らないまま死ぬのも俺はどうかと思う。あれを見てどうこう言うわけじゃなくて、せめて思い知ってショックを受けてほしい。〇〇はどう思う?それを踏まえて、見て欲しくない?」もう、目から鱗だった。

結婚前から、この人のこういうところがとても好きだった。自分で考えて、自分の意見をきちんと言える人。自分を持っていて、自分が好きな人が私は好きだ。私にはそれがない。こんなことしか思って生きれない、それを迷惑とわかっていて愚痴らずにはいられない自分が大嫌いだ。夫の一言は自分に自信がなくて、母に怯えるだけの私にとって、まさに目から鱗だったし、とにかくありがたかった。それを聞いた私は、素直に見てほしいなと思えるようになった。だからこの記事も書いている。お母さんも大変だったよね。わかってる。でもね、私はね、こう思ってたんだよって…やっぱり知ってほしい。

家の仲を取り持とうと感情を押し殺しながら頑張ったり、何度も枕を濡らしながらそれを無理だと諦め、家がいるのが嫌で、やっと大人になって、出来婚という形で突如として家から出る。
そんなただの素行不良娘の昔話。
母との思い出をここに書いていきたい。

 

 

高校生の時、車通りが激しい交差点で、信号を待ちながら「このまま突っ込んで死ねたらいいのに」って思いながら毎朝通学していた。

それは一時の思春期のものには留まらず、大人になった今でも定期的に思うし、この高校生の時は全てが嫌で、この先いいことなんてなにもないと思っていて、仲の良い友達にもこの先の人生明るいことなんてないから、頑張っている部活動が終わったら死んでしまいたいと、そんなことを漏らしたこともある。ちなみにその時の友達がなんて言ったかというと「松坂牛を食べよう」と返してきた。食べたことはないが、高級肉だから美味しいはず。それを食べずに死ぬのは勿体無いじゃないかって。その後私たちは帰るまでずっと、死ぬまでに味わわなければ勿体無い食べ物を言い合って帰った。あの時のあの返しはほんとに笑った。友達にはとても感謝している。

両親はまさか私がそんなこと考えてただなんて、夢にも思わないだろうと思う。でも、そうだったんだな。今思えば高校生の時の私は、かなり限界だったのだと思う。

自分では頑張って取り持ってきたつもりの両親の仲は、父の借金という形で目に見えて最悪なものとなり、母に「あんたたち(妹がいる)の為に離婚しないんだからね」と言われ、家の中はかつてなく空気が悪くて、どこにも私の居場所なんてなかった。当時頑張ってる部活があったから、それがあるまでは死なない。そうやって死ねない理由を探す毎日だった。でも結局死んでないのだから、痛いのは嫌で死ねないただのメンがヘラった奴なんだと思う。でももし、もうここから楽に消えることができるなら、それができるならみんなにとってそれが一番いいと思っていた。それは今も思うことだけど。

それでも、なんとか道を踏みはずさずに、今まで世間一般の"普通"程度に生きてこられたのは、松坂牛の友達の件もあるが、周りの友達に恵まれていたのと、借金の件で、叔母が真っ先に私を抱きしめて「辛かったね」と言ってくれたからだと思う。両親は大変で、どちらも自分たちのことばかりだったから、あそこで私を気にかけてくれてどれだけ救われたか、感謝してもしきれない。

 

私が一番幼い時の記憶は、2歳〜3歳の頃からある。その頃から、気付いたら塾に通わされていた。教育や、しつけにとことん厳しい母だった。箸がちゃんと持てないと手が赤くなるまで叩かれた。しかし「あんたはまだマシよ。私もおばあちゃんに箸が持てないと箸で叩かれたのよ。まだ手だから痛くないでしょう」が決まってついてきた。何か服で文句を言うと「同じことをおばあちゃんに言うと裸で外に吊るされたわ」と言われる。家の毒が根深いなと思うのは、毒の親もまた毒だから、そうやすやすとこども1人の力で解毒できるものじゃないところだ。

手が出るなんてことはほんとに日常茶飯事で、ひどいときは物だった。しかしそんな母も、遊びにはよく連れていってくれた。母の作るご飯は美味しかった。いい思い出だってたくさんある。そんな思い出と、されたことや、言われたことの狭間でいつも揺れて苦しい。本音はいつも、何より母に好かれたかった。だから母の言う通りにできない私が悪いと思っていた。そんな自分がいつも嫌いで、性格が丸々変わってくれたらいいのにと小学生の時から思っていた。母の言う通りにできるような、別の自分になりたかった。

母と違って、私の中の父はいつも曖昧だ。ろくに話したこともない、そもそもいつも帰宅が遅くて、家にいない。幼い頃はいても毎晩のように母と喧嘩をしていたし、そんな母から父の愚痴を常に聞かされていた。私の顔は父に似ているのだが、母が父を嫌っているため、母が私のことを父に似てるというたびに、私も嫌われてしまうのではないかと、それが怖くて、頑なに認めようとはしなかった。

もうきっかけなんて思い出せないけど、かなり幼い頃から私には爪を噛む癖があった。その癖は幼い頃の癖に留まらず、ついには指の皮までめくるようになってしまった。今現在、強迫性皮膚摘み取り症になっているように思う。私が精神科にかかりたいな、と思う理由の一つだ。

自覚症状としては、以下のものがある。

・爪噛み
・爪のまわりの皮めくり
ニキビはつぶすし、かさぶたできたら剥がすし、言い出したらキリがない。全部時間を忘れて、血が出て痛いと思うところまでやる。治したい気持ちはある。でも治せない。手はいつだってボロボロだ。

そういえばこの皮膚摘み取り症の中の一つに、髪の毛を抜く癖があるのだけど、私も小学生の頃あった。その時の話をしようと思う。

 ……色んなことがストレスだったのか、爪を噛む癖に加えて髪の毛を抜いて、もっと怖いことにそれを食べるという癖が出始めた。その時の絵面は想像したくない。狂ってやがる…おそらく、食べたのは抜いている髪の毛を親にバレたくなかったのではないかと今では思うけど。

案の定、やりすぎて一部分が禿げたことで、母にすぐバレるし、その場で父にもバラされる。母にどうしたの?と聞かれても、知らない、の一点張り。そして、皮膚科へ連れて行かれることになった。あの時は怖かった。だって、当然自分で抜いている自覚があるのだから、嘘がバレてしまうと思ったから。しかし母にはまさか自分で抜いているなんてそんなこと言い出せない。母はなんらかの病気を疑っている。診察も、お医者さんには母の手前、知らない勝手に禿げたと言ったけれど、そんなこと今にバレて、怒られると終始びくびくしていた。しかし、先生は優しく先に待合室へ行っていなさいと、言うだけだった。
その間何が話されたのかはわからないが、そわそわしながら待っていると、待合室から母が帰ってきた。しかし母は何も言わない。でも、その無言が、その顔が、機嫌が最悪だということだけはわかった。私はいつ怒られるのかとびくびくしながら会計を済ませるのを黙って待って、車に乗ると、母は途端に私をしかりつけた。

「私に恥をかかせやがって、あそこにもういけないじゃないか。あんたはいいよね。ストレス?その程度のストレスで髪を抜くんだったらいっそのこと髪の毛を全部抜いてしまえ。」
泣きながらごめんなさいと謝った。
翌日あった家庭訪問では、「見てくださいよ、先生」とまだ禿げている頭を、当時の担任の先生に強制的に見せられた。「この子自分で髪の毛抜いちゃって(笑)」私もそれに合わせて笑った。死にたくなるぐらい恥ずかしかった。そして髪の毛を抜く癖はなくなったけど、かわりに指の皮をめくるようになった。

他に小学生で思い出深いのは、将来の夢の作文で、どうせお母さんに決められると書いて親を呼び出すことになったりとか、80点以下を取ると怒られて叩かれるからそれが怖くてカンニングしてバレたりとか、親の気をひこうとあることないこと嘘ついて担任の先生にバレるとか、男子をみんな〇〇君と君付けで呼んでいたのだけど、仲の良い男子に呼び捨てで、と頼まれて呼んだら、母にバレて怒られ叩かれ、男子に泣きながらできないって言ってドン引きされたりとか、嘘を重ねる私に包丁だして殺してやろうかとか、車を池の前まで出して、一緒にここで死ぬかとか、妹なんて算数の教科書の固い方で顔を叩かれ前歯が2本抜けた。乳歯だったからよかったものの、私も分厚い図鑑で叩かれそうになって死ぬと思ったこともあったし、怒った時の母はほんとうに恐ろしかった。テストで80点以下なんてとろうもんなら、恐ろしくてなかなか家に帰れないし、どうやって隠すか必死になった。なぜ隠し、嘘をつくのか、嘘をつくから怒られるのではないかと母に言われたが、素直に出しても叩かれて怒られるのだから必死に隠す方法だってそりゃ考えるわなと小学生の私に少し同情してあげたい。この頃両親の仲は、父親が性病になって帰ってきたとき母が「私の人生返してよ」と言ってしまった為にもうかなり悪くなっていたらしい。そんなこと後から知るのだけど。

 

さて、中学生になった私がどうなったかというと、勉強する意義がわからなくて、全くする気になれなくなっていた。明日テストなのに何も勉強してない。塾に行ってもやる気はゼロ。部屋に帰ってもぼーっと天井を見つめるだけ。小学生の頃まではドリルの一単元ごとに母の答え合わせがあったのだけど、それが中学生になり、あんたもこどもじゃないんだからとなくなった。母は小学生の頃からの勉強する癖をつけたつもりでいたのかもしれないが、目論見は完全に外れていて、今まで怒られるから勉強していただけなのだとその時気付いた。せいぜい怒られない程度にぎりぎり勉強するぐらいが関の山。高校だって正直どうだってよかった。なんで頭のいい高校に通わなくてはならないのか、そこに行ってもいいことがあるのか。こうやって決められ続けて、少しでも点数が悪ければ叩かれるのに?この先もずっと?私の人生ってなんだ?この頃あたりからそんな気持ちが芽生えてくる。おめでとう反抗期です。ちゃんと人間の成長過程は順調に歩んでいますよ。とにかくそんなのはごめんだと思っていた。母が進める進学校も、学校見学に行ったってなんら興味すら湧かなかった。私は勉強から逃げるように部活動や、諸活動に勤しんだ。母はそれを良く思ってなく、勉強以外の頑張りを認めないので、勉強を頑張らないと、部活動もやらせてもらえなかった。部活をやりたいが為に勉強をしていた。

ある時のこと、悪い順位の成績表をもって帰ると、母は鬼のような形相で怒り、持っていたラケットをヒステリックに階段へガンガンと打ち付けはじめた。驚きすぎて何が起こったのか理解できないまま呆然としていると、ヒビのはいってしまったラケットを真っ二つに折って私に投げつけた。この時の母はそれだけでは収まらず、私の部屋のありとあらゆるものをひっくり返し、電話の子機も粉砕した。そして全部を私に片づけるように命じた。気をつけろ、カーボンは刺さると痛い。

片付けながら、ただただ明日の部活どうしようと考えた。これでも校内では一番強くて、次の試合だって決まっていて、副部長を任されていた。やはり辞めなければいけないのかと泣きながら寝て、次の日は最初に買ったボロボロの初心者用のラケットをこっそり持っていった。そこらへんは割とタフな私。

その日帰ると父が口添えをしたのか、新品のラケットが置いてあって、無事に部活は最後まで続けることができた。そんなことがあったって残りの中学生活も、ずっと私は勉強をしなかった。もちろん母はそんな私を怒り、叩く。しかし私は叩いても言うことを聞かなくなってしまって、そんな私と母が対決していたのが中学生活の主だった。何かにつけては「もう学校へ行かなくていい」「誰が生活させてやってると思っているんだ」と言われ、言い返す気もおきなかった。勝手に公立高校の推薦を取ってきたときも、もしそれに落ちたら、既に受かっていた私立の進学科に進んでもらうと言われた。最初っから私に選択肢などないのだ。だから無理やりでも推薦をもぎ取ってきて本当によかったと思う。それからの親からの私の評価は無駄金使いの聞かん坊、やればできるのにやらないどうしようもない奴。順調に家が嫌いになりつつあった。

 

無事に推薦で受かった高校にあがった私はこれまた部活動に勤しんだ。吹奏楽が好きだった。何よりも音楽が好きだった。もちろん母はよく思ってなく、成績が悪かったら部活動を辞めろと言われていたので、悪かった時はコピーをとってペイントで編集して誤魔化したものを見せたりした。一度だけ正直に見せた時、次の日大切な大会があったが、家に軟禁されてしまって部活に行けなかった。それからはもうずっとコピーしてたな。その頭があったらもっと他に使えと今では思うけど。

父の借金が発覚したのは帰ってきて突然だった。母が慌てふためいて「私の学資保険が全部使われている」と言った。勝手に解約したのは父だと。間も無く帰ってきた父より借金は私の学資保険を全部使っても残りがまだ500万くらいあると言われて、家庭崩壊とはこのことかと他人事のように笑った。しばらく別居することになり、もういっそのこと離婚したらいいのにと勧めたが、しなかった。借金は父の実家と母の実家が揉めてなんとか返済。別居も解消したものの、会話なんてあるわけなく、家庭内別居状態。居心地はかつてなく最悪だった。家のことを忘れるように部活にのめり込んだ。部活を頑張ることで家に帰らずに済むのもありがたかった。朝練はもちろん、土曜日も丸一日練習していたし、休みは日曜日だけだった。それだけ頑張ったおかげか、ソロの地区大会で金を取り、県大会へ行けることになった。初心者の高校生にしたら2年間で本当によく頑張ったと思う。もしかしたら褒めてもらえるんじゃないかと、どきどきしながら電話でそれを伝えると「そんなことより、明日のテストは大丈夫なんでしょうね」とテストの心配をされた。そのまま黙って電話を切った。褒められたことがないのは、私が頑張れてないからだと思っていたけど、これで褒められないのだったら、もう無理だ。同時に色んなことが思い出されて、賞状をくしゃくしゃに握りしめながら泣いた。ほら、小学生や中学生のマラソン大会だって、頑張って7位をとって表彰状を持って帰ったときも、それだけできるんならなぜ最初からやらないのかと怒られたじゃないか。母が唯一認める勉強だって、小学生の時オールAをとったことがある。その時だって、褒めてもらえなかったじゃないか。母は何をしたって褒めてくれないのだ。だからもう母に褒めてもらうことは諦めようと、ここらへんから母に対して諦めることが多くなった。

このまま就職しようと思っていたが、母の強い勧めで大学進学することになる。行ける大学をこれまた推薦で決め、大学に行けることになった。あれだけ借金があったのに行けたのは未だに奇跡だと思う。自動車の免許を取得して、遊ぶお金は自分で稼ぐ。色んなことが自分でできるようになってくる。当時恋人がいて、初めて人を好きになって、愛される喜びを知って、この辺りから人生がみるみる楽しくなる。大学の思い出といえば、妹が病気になって手術をした帰り母が「お願いだから、お父さんと同じお墓には入れないでね」と電車で泣きながら私に頼んだこととか、デートレイプ被害にあったときに慰めるどころか「そんな恥ずかしいこと人に言うんじゃないよ」と言われたりとか、叔母さんの前でうっかり私のことをいつものように不細工だと言い、怒られ、以後言わなくなったことが印象的だった。この頃当時の恋人と別れた私に、その恋人が女性だったから、ものすごい暴言を吐かれたりとか(胸糞悪いから詳しくは書きません。※私はバイセクシュアル)自分に自信をつけたくて、日本一周して帰ってきたときも何かと難癖をつけて「あんたは1人でなんでもできるような気になって、私がいないと何もできないんだからね」と言い放ったりとか。

もうとにかくこの時には家の全てがうんざりだった。一刻も早く家から離れたかった。一悶着あった就職活動も終えて、晴れて就職。この頃には夫と出会って付き合っていて、もう家にはほとんど帰らなくなっていた。もう帰りたくなかった。それで夫に迷惑をかけたのはいい選択だとは思ってないし、今でも申し訳ないと思ってる。でも晴れて結婚して、家が離れてどれだけ苦しかったか思い知るそんな毎日を送っている。

 

昔話はこれでおわり。また今の話に戻ろう。

金銭面ではやはり親に感謝せねばならない。でもこうやって書いてみると異常さが浮き彫りになるのも自分でもわかった。というか辛い。自分で子ども育てて、わかる部分もあるし、しんどかったのもわかるけど、わからない部分も多くて、やっぱり愛してなかったのでは?とか考えてしまうのもしんどい。辛い。

前の記事でも言ったように、普通の家庭というものを夫の家族で目の当たりにして、今までの人生は、苦労は一体なんだったのかと愕然とするし、正しく愛されなかった私がきちんとこどもを愛せるのか?私もそうなってしまうのでは?とどうしもうもなく子育ては不安だし、そうやっていつも必要以上にピリピリしてる気がして、しんどい。漠然と生きるのがしんどいのはやっぱり今でも変わらない。

いつも自分の行動の基準が、母に怒られないように何かをするだったから、怒られない環境に行くと何をしていいかわからない。その逆もなんだけど、何かをすると、母が怒るかもとビクビクするのもなかなか治らない。

「このままだと、ど根性ガエルの娘みたいなことになるよ」と夫は言う。

どうだろう。もし、父や母が倒れた時私はこんなはずじゃなかったと思うのかな。後悔するのかな。

それは置いておいても、介護問題で衝突するのは目に見えてるそうで。ははあ、おっしゃる通りだと思います。もし、このまま介護問題に直面したら冗談ではなく胃に穴があくな。それまでになんとか自分の心を整理したいとは思っている。

今はまた母が嫌い期なんだと思う。悪い人じゃないんだ。ただちょっとヒステリックなだけなんだ。高校の時だって毎日弁当を作ってくれた。母のごはんはとても美味しかった。

母の愚痴を聞かされていたせいで、全ての根源は父親にあると思い込んでいたけど、今となってはわからない。

父親も、ヒステリックな母親に参ってギャンブルに走ってしまったのではないかとそんなことを思ってしまう。父親父親で悪いところはたくさんあって、仕事での父の姿はわからないが、家庭での父はあまり尊敬できるものではなかった。しかし母よりは幾分か話が通じるのは確かだ。就職活動でぶつかったときも、テニスラケットを粉砕されたときも、話が通じたのは父親だけだった。しかしもう離れてしまった今となっては、それを確かめる術はないけど。

あーあ、父と母を好きでいたかったなあ

ずっとずっと好きでいたくて、自分が取持ったり頑張ればいいと思って我慢したりもしてきた。でも、無理だった。私の力が足りなかっただけかもしれない。

出来の悪い娘で、どうしようもないやつでと、お母さんやお父さんが言うたび、心から私は本当に産まれてきてよかったのだろうかと思うよ。

私が産まれてきてしまったが為に、無駄なお金を使わせてしまって、離婚もできなくて、なんも得することなかったよね。あーあ。ほんと親孝行のできない、出来の悪い娘でごめんねー!

 

さて!長々とごみみたいなこと書いたけど、ごみみたいな気持ちはこういうとこに吐き出しちゃって、気持ちを切り替えるに限るね!!

精神科へ行きたい。というかカウンセリングしてみたい。そんな軽い気持ちで行ってみてもいいのだろうか。なんて言えば?何を主に聞けばいいのやら。でもこんな気持ちが少しでも改善するのなら、解決法があるのなら、プロの視点からお願いしたいと思ってる。

……まあなんとかなるかぁ〜

いつだってそうやって自分にできることを少しずつ精一杯やろう。それができさえすれば未来はどうなるかわからないけど、きっと、大丈夫。

あ、ひとつ高校生の時の私に言えるのは、大丈夫大丈夫この先、大人って超楽しいこといっぱいあるよってそれだけ。辛かったことも、全て笑い話に変えてやる。私にはそれぐらいの強さが必要なのかもしれない。

幸せになってやるからなー!見てろよ!